2-1 『凪沢さんちの日常 〜 Another』



 夢を、見た。
 燃えさかる炎のように真っ赤な髪と瞳を持つ、黙っていれば非の打ち所のない青年が、
「ちょっとごめん」
 小さな声で本当に申し訳なさそうに謝りながら自分を抱きかかえた後、約一秒後に起こる大惨事から自分を守ってくれる。
 そんな回想という名の夢を視たところで――

 ――目が、覚めた。

 宝石を連想させるナギサの碧眼が最初に捉えたのは、見飽きるぐらい見慣れた天井。
 しかし、真っ先に浮かんだのは、
(……暑い)
 という言葉で、彼女は乱暴に布団を蹴り飛ばす。そして、上半身を気怠く起こしたところで、自分が少し汗をかいている事に気づいた。
 ふと窓の外を見る。空はまだ暗い。続けて時計を見ると、いつもより一時間は早かった。さすがにこの時間には誰も起こしには来ない。
 そう考えたナギサは、電気をつけるべく紐に手を伸ば――さずに止めた。それからもCD棚やヘッドフォンを一瞥したり、テレビのリモコンを手に取ろうともしたが、やはり身体はおろか手すらも動かさない。何となく気分ではなかった。
 しばしの逡巡を経て、結局ナギサが取った行動は、丸まった布団を抱き枕代わりにゴロゴロ転がる事だった。じっとしていても、あるいは二度寝をしても良かったのだが、彼女は小動物のように、ごろごろり、と転がり続ける。
 嗚呼、何て無為な過ごし方だろう、と思う。
 もちろん、もったいない、とも。
 一度は動きを止め、灯りの点いていない蛍光灯をぼんやりと眺めもしたが、すぐに飽きてしまう始末。おまけに目も冴えてしまったため、もう眠れない。
 けれど、別に構わない、と思った。
 怖かったのだ。
 眠ってしまう事が、ではない。
 万が一にでも夢の続きを見たり、一人静かに考え込んでしまう事が、何となく怖かった。
 彼女の無意識は、得体の知れない感情が芽吹く事を恐れていたのである。
 ゆえにナギサは、退屈に身を焦がしながらも、ただひたすらにベッドの上で転がり続けていた。



 それから約一時間を過ぎた頃。

 ぎっ――

 という物音が微かに響いた。
 耳を澄ませても簡単に聞き取れる音ではなかったが、ウサギのように耳が良いナギサは、それが階段からだと察する。時間から考えると、誰かが自分を起こしに来た。その相手は昨朝がヤヨイだった事から、間違いなくトラッドである。
 瞬時に、また正確に状況を把握した彼女は、すかさずタヌキ寝入りし、じっ、と義弟が来るのを待つ。
 すると直後、夢に見たせいか、不意に彼――魔王≠フ事を思い出してしまった。
 それも一度だけ目の当たりにし、不覚にも見惚れてしまったあの笑顔≠セった。
(〜〜っ〜〜)
 ぼっ、とナギサの頬に朱が走った、のも束の間。
「ナギサー、入るぞー?」
 ごんごんごん、と大きなノック音と、控えめなトラッドの声。
 そして。

 きぃ――――

 という消しようのないドアの軋みに、彼女はすぐさま我に返った。
 けれど、彼女にとっても消しようのない心臓の音は、とくんどくん、と妙にまとわりついてくる。
 うるさい。うるさい。うるさい。
 胸中で文句を言っても、当然止まらない。とはいえ、本当に止まっても困るのだが。
 ともあれ、トラッドの足音はぎこちなく、それでも真っ直ぐにこちらへ向かってくる。そのたどたどしいリズムから推測するに、
(ったく……部屋で飲むなって言ってるのに)
 とでも思っているに違いない、とナギサは確信した。
 そんなこんなでトラッドがすぐ側まで辿り着く。
「……ナギサー?」
 続けて、小さな呼びかけ。
 まだ警戒心が濃いので起きない――代わりにこう返事をする。
「ぐぅぐぅ」

 ……………………

 呆れに似た複雑な心境が、ひしひしと伝わってきた。
 同時に疑いの眼差しも察知したので、極めて自然を装ったタヌキ寝息を唇から落とす。
 すると今度は安堵の気配。
 全く以て素直で、可愛い義弟で――その油断が命取り。
 ささやかな目論見によって隙を作り出した<iギサは、そこで初めて瞼を持ち上げる。
 目が、合った。
 伴ってトラッドの表情に浮かんだのは驚愕、恐怖、そして狼狽。が、それも一瞬で、彼は素早く対策を講じようとする。
(……遅いッ)
 ナギサはそれを嘲笑うように――跳んだ。
 そこで気づいた。
 身体のキレがびっくりするほど良い事に。
 しかし、それは当然であった。何故なら普段よりも一時間以上早く起きた彼女は、ゴロゴロ転がる事、という準備運動を終えていたのだから。付け加えると、忌々しい彼≠フ夢を見たせいもあるだろう。
 まずい、とさすがの彼女も思った。
 だが、想像以上の勢いで始動していた身体を止める術など、もはやどこにも存在していない。
 そうして背後に回り込んでしまった彼女は、微塵も手加減できないまま、

 ぱしぃん、と。

 トラッドの後頭部にハリセンを炸裂させてしまった。


 いつもより強く叩いてしまった、という罪悪感があったから、だろうか。
「や、いつも悪いと思ってるのよ?」
「……」
 朝食の席に着くや否や、ナギサは本心から謝罪の言葉を口にしていた。しかし、間違いなく日頃の行いのせいで、トラッドの視線はそこはかとなく冷たい。
「でも、ほら。どうしようもない事情ってあるじゃない?」
 ゆえに、つい言い訳じみた事を言ってしまう。
「……起こしに行った弟の頭をハリセンで叩くのに、どんな事情があるんだよ」
 一方のトラッドも、可愛い皮肉を返してきたので、
「んー、気分?」
 ついつい脊髄反射でからかってしまった。
 それは義弟が可愛いからに他ならないのだが、やはり日頃の過ごし方のせいでもある。
「…………もういい」
 結果、上手く謝る事ができず、ますます怒らせてしまって、ナギサは軽い自己嫌悪に陥った。普段のやり取りに近いおかげでトゲがなかったのは、せめてもの救いだった。
 その後もタイミングを見計らって、何とか謝ろうと考えたのだが、やっぱり思うようにはいかない。むしろ、ますます拗(こじ)れそうな兆しだけが蔓延っていた。
 ここで幸いにもインターフォンが鳴り、リノがやってきたため事なきを得たが、なるべく普段通り会話しながらもナギサの心は、どんより曇ったままだった。



 朝食後に三人を見送ったナギサは、気持ちを落ち着かせるべく紅茶を淹れる。
 一応は休日。いつもならこっそりトラッドとリノを尾行し、何かしらイタスラするところなのだが、そんな気分にはなれなかった。
「……ふぅ」
 滅多に使わない、とっておきの真っ白いカップを手に取り、まずはニルギリのセカンドフラッシュの香りに、ほっ、と一息。それから数秒ほど間を置いてから、何も入れずに一口。
 そして、我ながら上手に淹れられた、と自画自賛。
 パジャマ姿でなければ、そこそこ絵になっていただろう。
 ナギサはアルコールも好きなのだが、紅茶の方がずっと好きで、数年前には紅茶専門店でアルバイトをしていた事もあるぐらいだった。実は密かにファンも多く、いつの間にか看板娘にもなっていたのだが、その時の事を思い出す度に苦笑してしまう。メイドに近い制服は似合っていると評判だったのだが、やはり性に合っていなかったのである。
 それでも真面目に勤務していたため、今でもその店には縁があり、良い紅茶が入荷すれば連絡を貰えたりもする。それゆえにナギサは、そこ以外の場所では紅茶を買わなかった。香りに誘われて、ふらり、と別の店に立ち寄ってしまう事はあるが。
 そんなこんなで懐かしい思い出に浸りつつ、紅茶を飲み終えると、また退屈な時間がやってきた。
 テレビを見ようか、CDを聴こうか。
 こういう時は決まって、その選択肢が生まれる。
 大抵は後者を選ぶナギサだが、今日に限ってはどちらも選ばず、それでも自室に向かった。
 そしてまた、掛け布団を抱き枕代わりにゴロゴロ。傍から見れば、自堕落な事この上ない。
 しかし、彼女の胸中は自堕落でも穏やかでもなく、

『やっとさっきの話し方に戻ってくれたね』

 気がつけば彼≠フ笑顔ばかり思い出していた。
(〜〜っ〜〜)
 またしても、ぼっ、と頬が上気する。
 熱い熱い――
「うにゃああああッ!」
 ――暑い。
 ナギサはブレイクダンスさながらに布団を真上に蹴り上げ、落下前に仰向け状態でカニバサミするや否や、
「ていっ!」
 フランケンシュタイナーめいた動きでベッドに布団を叩きつけた――直後。
「あ」
 ころりんこ、と転がってから、ごん、と壁に激突した。
 そこには先ほど紅茶を飲んでいた時のような優雅さはなく、もちろん痛かった。
「痛ぁ……」
 ナギサはひりつく顔を押さえながら、じたばたともんどりを打ち――
「……ふぇ?」
 ――ベッドから見捨てられたかのごとく、どしん、床に落ちた。
 やっぱり痛みはあったのだが、今度はあまり気にならない。
「……なに、やってるんだろ」
 どうしてこんならしくない事を、という疑問がそれ以上に大きかった。
 今でこそ使う回数は減ったが、空き部屋にはこんな時≠フためにサンドバックが置いてある。いつもならトラッドの事を思い浮かべながら、ハリセンでストレス解消をするはずだった。
 しかし、今は誰の顔も思い浮かべず、毎晩お世話になっている布団に八つ当たりをしている。
 初めての事、だった。
 どこか壊れてしまったのかと思うぐらい、衝撃的な現実だった。
 そこでしばし、天井を見つめながら呆然と自失したナギサは、
「……お風呂にはいろっと」
 思い出したかのように浴室へと向かうのであった。



 しゃこしゃこ、しゃこしゃこ。
 誰もいなくなった家で、普段より丁寧に歯磨きを終えた後、パジャマと下着をカゴに放り込んだナギサは、浴室に足を踏み入れる。
 浴槽には昨夜の残り湯。ふと伸ばした手で水面を撫でると、指先から当たり前のように冷たさが伝わってきた。
 湯を張り直そうか、と思わなくもなかったが、すぐに諦めた彼女はシャワーに切り替えた。
 それを掌で掬っては肩にかける、という行為を何度か繰り返してからターゲットを全身に変更する。
 局地的な雨が、髪を、頬を、首を、胸を、腕を、腰を、太股を、足首を、踵を滑り落ちてゆく。次第に湯気が浴室を満たし、彼女の細くしなやかな肢体を覆い隠していく。  湯と共に汗が流れ落ちる感触が、気持ちよかった。
 そこまでは何の違和感もなかった。
 だが、スポンジを泡立てたナギサは、ぼんやりと、けれど丁寧に身体を洗い始めた。
 当初は軽く汗を流すだけの予定だったはずなのに。
 丹念に、入念に。
 彼女は身体をくまなく洗う。
 優しい泡に包み込まれた四肢と同じく、頭の中も真っ白だった。
 にも拘わらず、手は昨夜よりも念入りに汚れを落とそうとしている。
 どうしてだろう、と気づいた彼女は不意に手を止め、排水口に泡が吸い込まれていく様子を、じぃ、と眺めていた。
 繰り返される自問自答。
 一人っきりのQ&A。
 答えは出てこない。
 そこで改めて、自分は今何を考えているのだろう、とナギサが無意識に問いかけると、

(嗚呼、こんな顔もするんだ)

 脳裏を掠めたのは、やっぱり彼≠フ淡い笑顔で。
「……なんなのよ、もう」
 よく分からないままに、ぽつり、と呟いた彼女の顔は、うっすらと朱に染まっていて。
 ナギサはそれをシャワーのせいだと思いこんでから、浴室を後にした。



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