2-5 『それは兆し』



 とくん、とくん。
 急に早くなった心臓が、感情を激しくノックする。
 どくん、どくん――どくん。
 それは静まり返った周囲とは逆に騒々しくて。
 おまけに熱も帯びていて、ナギサの思考は漂白の一途を辿り始める。
「……どうして」
 最初に零れ落ちたのは、ナギサの呆然とした声。
「どうして、こんなこと、するの?」
 更に、ぽつぽつり、と続けられたのは問いかけ。
 途切れ途切れではあったが不思議と声色は落ち着いていて――それから、しばしの沈黙を経て。
「少しは安心してくれるかな、って」
 ようやく返ってきたのは、彼女を気遣う一言――だったのも、一瞬。
「……いや」
 すぐさま否定の言葉を口にした魔王は、きゅっ、とナギサの身体を柔らかく抱きしめ直し、小さく首を横に振った後、
「俺がこうしたかっただけ、かな」
 今までのやりとりが台無しになる言葉を告げた。だが、怒るでも照れるでもないナギサは、全く別の言葉を言った。
「へぇ、俺なんて言うんだ?」
 初めて使われた一人称に、強烈な違和感を覚えたせいだった。
「元々は俺≠ネんだけどね」
「ふぅん……じゃあ、何で今までは僕≠セったの?」
 そして、少々不敵に続けられた問いに対し、わずかに身体を強張らせた彼は、こう言った。
「……緊張、してたから」
 それは魔王らしくも彼らしくもなかったため、直後は疑っていたものの、微かに伝わってくる不規則な震えに気づいたナギサは、
「案外可愛いところもあるわりに、意外と大胆なのね?」
 イタズラな笑みでそう呟いた時、不意に――否、今更ながら気がついた。

 実は特に嫌じゃない、かもしれない、と。

『少しでも安心してくれるかな』
 彼は最初にそう言って、自分がそうしたかっただけ、とすぐさま否定した。それはきっと、紛れもない本音なのだろう。
 しかし、実際に安堵している自分がいる。もしかすると、これは全て思惑通りなのか。あるいは、単なる偶然か。それは分からない。
 分からない、けれど。

 もうしばらくはこのままでもいい、かな。

 そう思ったナギサは、抵抗するでも抱きしめ返すでもなく、自然体で身を委ねるのであった。



 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
「何て言うか……その、悪かったわね」
 どちらからともなく離れ、何となく距離を取ったナギサは、気まずそうに頬をかきながら、ぽそっ、と謝る。
「気にしなくていいよ」
「……そういうわけにもいかないでしょ?」
「でも、最初に――」
「わー! い、いちいち言わなくていいから……っ!」
「そう?」
「そうなの!」
 しかし、当の魔王はあっけらかんとしたもので、
「全くもう……何だってのよ」
 慌てふためいていたナギサは、呆れながらも落ち着きを取り戻してきた――のも束の間。
「俺の胸で良ければ、いつでも貸すし」
 次の言葉でまた、ぼっ、と頬を上気させて、

『俺がこうしたかっただけ、かな』

 同時にふと、先ほどの言葉を思い出していた。
 もし、冗談ではなかったとしたら――彼はどういう意図であんな事を言ったのか。
 しかし、考えようとしてすぐに止めた。
 嫌な予感とまではいかないが、何となく厄介なこと≠ノなりそうな気がしたのである。
「……まぁ、いいわ」
 結局、色々な事を放り投げたナギサは、はぁぁぁぁ、と深くため息を吐きつつも投げやりに呟いた。
「じゃあ、本題に入ろうか」
 その直後、不意に魔王はそう言った。それがあまりに絶妙なタイミングだったため、彼女は緊張に身を固くする。
 本題――そう、それはキッカケだった。
 元を辿ると、ここを訪ねた理由は魔王の正体≠知り、それを記事に書く事。
 その本題に触れるという事は、つまり。
(……そっか)
 終わりの始まり。
 または。
 本当の、始まり。
 その事実に気づいて、どう思ったのか。
 彼女は鞄から手帳を取り出そうとしなかった。
「ナギサさん?」
 当然、至極真っ当に疑問を覚えた彼は、暗に指摘する。だが、俯いたナギサは所在なげに床を見つめていたものの、
「……何でも、ない」
 やがて観念したように、すっ、と静かに顔を上げた。
「メモなんて……多分最初から必要なかったのよ」
「どうして?」
 そして、若干の寂寥感が滲む声で、ぽつり、と一言。
 そう、必要ないのだ――何故なら。

(貴方みたいに変な魔王≠フこと、なんて)
「こんな衝撃的な取材……」
(どれだけ忘れようとしても)
「……忘れられるわけないんだから」

 そもそもが無理な相談なのである。

 その言葉から準備が整っていると判断した彼は話し始めた。
 自分という魔王が、一体どういう存在であるのかを。



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